歴 史


このサイトが対象としている地域では、旧石器時代の石器や縄文時代の住居跡から弥生時代、古墳時代、 平安時代の埋蔵文化財が発掘されて、大橋遺跡、氷川遺跡と呼ばれています。現在は、国家公務員大橋住宅、 駒場高校のグランドを挟んで都営氷川住宅の敷地となっているところなのですが、約2万年も前から人が住んでいた 土地であることが確認できるのです。


国道246号線から急な階段で境内に入る上目黒氷川神社は、天正年間(1573-1592年)の創建といわれておりますが、更にそれ以前から今も鎮座する稲荷社があったようで、目黒川を見下ろす高台にある神社が、古くからこの地域の交流拠点であったことが想像できます。 上目黒氷川神社と呼ばれるのは、江戸時代から1964年に住居表示を大橋とするまで、このあたりの地名が上目黒であったことからなのです。


氷川神社の北側は、八代将軍徳川吉宗の享保の時代(1716~36年)に、目黒全体の鷹狩を管理する御用屋敷となり、御膳所・御腰掛、添え地を含む東薬園4589坪、西薬園9305坪を擁していたといわれます。東大駒場キャンパスのある井の頭線の北側一帯は徳川将軍の鷹狩場で、将軍が鷹狩をするときには、現在の松濤文化村通りを進み、駒場キャンパス炊事門あたりからその狩場に入りました。鷹狩が終わると御成道と呼ばれていた淡島通に向かう道から御用屋敷に入り、そこで休憩してから江戸城に戻ったようです。


鷹狩とは飼いならした鷹を使って野鳥を捕えたりする行事ですが、ウズラ、キジ、ウサギ、イノシシ、シカなどの狩猟も行われていました。そのため駒場野のある上目黒村だけではなく、中目黒村などの地元の人たちにも仕事が割り当てられました。


明治維新の新政府の時代になると、幕府鷹狩場の跡地には、1877年12月に駒場農学校が新宿御苑から移設され、御用屋敷跡は1891年に騎兵第一聯隊、1892年に近衛輜重兵隊の用地となっていきました。


1923年9月に東京都心部を襲った関東大震災において、この地での被害は軽微であったようなのですが、その影響は駒場にも及びました。


現在の本郷にある東京大学の敷地の大半は11万坪あった加賀藩江戸上屋敷の跡地で、加賀藩から明治政府に収公され、その一部、1万2千坪あまりが、加賀藩主であった前田侯爵家居住の敷地とされていました。


隣接していた旧制第一高等学校(一高)は徳川水戸藩上屋敷の跡地にありましたが、これを駒場にあった農学部の敷地と交換すると共に、前田家の屋敷も併せて交換することになったのです。その結果、昭和5年に前田侯爵家、昭和10年に一高が駒場に移り、また、東京帝国大学に設置された航空研究所が、昭和5年に現在の駒場リサーチキャンパスの敷地に移転してきました。 航空研究所を駒場で再建したのは、前田家家老斯波家直系の子孫で貴族院議員でもあった斯波忠三郎男爵でした。


1949年に一高が東京高等学校と共に東京大学教養学部に包摂され、一高のキャンパスと建物が引き継がれました。一高時代のもので現在残っているのは、時計台のある1号館(国の登録有形文化財)、講堂、図書館(博物館)、101号館とキャンパスの片隅にある禅堂です。


駒場、青葉台、大橋と、現在の住居表示になったのは1964年のことです。目黒区が誕生したのは1932年10月1日で、目黒町と碑衾町が合併して目黒区となりましたが、その時に、駒場町、上目黒8丁目となり、それ以前は荏原郡目黒村大字上目黒の下に駒場と氷川の地名という時代が長かったようです。


1933年2月に駒場小学校が菅刈小学校分校として開設されました。その年の12月時点での駒場町の世帯数は734、人口は3440人でした。2019年1月の世帯数が4189、人口は7076人なので、高層住宅のなかった割には多くの人が住んでいたことになります。


井の頭線が開通したのは1933年で、当初からの駅名は変わりましたが、駒場駅と東大前駅の2つの駅があり、その中間に現在の駒場東大前駅が統合されてできたのは1965年です。


愛隣会が1946年1月に近衛輜重兵聯隊の兵舎を利用して開設され、衣食住を失った人たちを収容しました。当時の敷地は現在の面積の3倍にあたる約4万㎡でした。 1946年9月には府立第3高等女学校が移転してきて、1950年1月に都立駒場高校となりました。現在の校舎は1995年に竣工したものですが、昭和天皇の皇后御学問所として使用された仰光寮が1951年にこの地に移築され、歴史ある学校の伝統を象徴する建物となっています。


目黒一中も1947年に近衛輜重兵聯隊の兵舎から開設されました。東山中学は目黒一中から分かれたものです。


1948年に東京工業高校が移転してきて、東工の名前で親しまれてきましたが、1990年に日本工業大学付属駒場高校と改名されています。


1967年駒場公園、1986年駒場野公園(2007年拡張部分)と、古くは帝国大学の敷地であったところが地域に開放されました。 山手通が大坂橋の下をくぐり、駒場と青葉台を分断したのは1964年ごろからのようです。その地下を中央環状線を走らせるための工事が、長く続きましたが、2016年には歩道も整備されました。


1964年に開設された東邦大学大橋病院は、2018年夏に現在地に移転しました。世田谷区に敷地はまたがりますが、入口が目黒区なので、住所はこれまで通り目黒区大橋になっています。


東京帝国大学農学部は1935年に本郷に移転しましたが、井の頭線の南側部分は東京農業教育専門学校の敷地として、駒場に残留しました。これが1949年に東京教育大学農学部となったのです。1978年に東京教育大学がなくなり、その跡地に、1983年大学入試センター、1986年駒場野公園、1989年都立国際高校が誕生したのです。


これら学校の教職員と学生の数は教養学部・総合文化研究科10800人 数理科学研究科150人、生産技術研究所2142人 先端科学技術研究センター620人で東京大学の合計が13700人となります。更に3つの高校の生徒数が3千人ほどあり、所属する学生と教職員・研究者が駒場の住民数7千人の倍を数えることになります。


淡島通と山手通り、そして東大のキャンパスに囲まれた駒場と国道246号の北側の地域は、渋谷駅からも近く、渋谷と 一体化していくような部分もありそうです。


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